第9話 旅人
果てしない草原の中に1本の小川が流れている。青空の下、草花が豊かに咲き乱れ、そよ風がまるで花の茎や葉の先をを躍らせるかのように軽やかにやさしく空気を撫でていた。その小川はその大きさに不釣り合いなほどに深淵な水底をのぞかせ、水面に浮かぶ花びらや草の葉の穏やかさとは不釣り合いなほどに、暗い暗い口を覗かせていたのだ。
水底に白い服の女性が沈んでいく。ゆっくりと緩慢に。
イリーナはゆっくりと手を伸ばす。間に合わないと、届かないと分かっている。でも手を伸ばす。
「シュヴァルツ・ノワール」
ミルゼット500が小石に乗り上げた振動でイリーナは目を覚ました。居眠りをしていたらしい。ミルゼット500は轟音とともに雪を踏みしめ、金属の胴体をきしませながら進んでいた。珍しくシルヴィアが操縦席に座り、|羅生門《ワープゲート》への道をひた走っている。
風は鋭く、空は暗雲に覆われている。標高が増すにつれて空気が薄くなり、景色はますます荒涼としてきた。
「これは……随分と険しいですわね」
イリーナは吐息混じりに声を漏らした。視線の先には、闇の底から抜け出してきたかのようにそびえ立つ黒々とした山脈が広がっている。その光景は、まるで空そのものを裂き、世界の境界をも呑み込むかのごとき、黒の障壁――恐れをかきたてるほどに圧倒的な存在感を放っていた。
イリーナはミルゼット500の計器を睨みながら、眉をひそめる。
「このまま進むのは無理ですね。飛行形態に移行するにも傾斜がきつすぎますし、頂上まで一度降りるほどの距離もなさそうです。多脚機構を使って登り切ります。」
シルヴィアが言うと、ミルゼット500は滑らかな動作で四肢を展開し、黒々とした山肌を這うように進み始めた。まるで生き物のように関節をしなやかに曲げ、岩の隙間を巧みにとらえて登っていく。ごつごつとした岩場からは、機体の爪がこすれる甲高い音が絶え間なく聞こえるが、その進行速度は思いのほか速い。山肌の傾斜が急になるたびに足を取られるかと思いきや、ミルゼット500の自動安定機構が働き、ふらつきも最小限で済んでいるようだ。
「さすが三ツ葉重工業製だわ。こんな崖に近い勾配でも、ここまで安定して登れるなんて……」
イリーナが驚いたように呟く。大気が薄くなるほどの高度にも関わらず、ほとんど息をつかせないまま機体は前進を続ける。吹きすさぶ風が徐々に荒々しさを増し、こちらを阻もうとでもするかのように唸る。けれどもミルゼット500はそれをものともせず、さらりと脚を引き上げては次の岩角を捉え、一気に身体を持ち上げていく。金属のボディが光を受けて鈍く反射し、黒い山肌に銀の筋を刻むかのように滑っていくその様は、どこか不気味なほどの頼もしさを感じさせる。
「頂上まで、もうあと少し……最後は飛行形態に移行して一気に飛んでいくのも良いかもしれないわね?」
イリーナが提案する。その言葉に、シルヴィアはふと広い空を颯爽と飛ぶミルゼットの姿を思い浮かべた。もう空の暗雲も足の下へと通り過ぎ青い空が顔を覗かせ始めていた、その時だった――。
「お嬢様、誰かいます!」
シルヴィアが、すすむ先を指さした。ちょうど黒々とそびえる山脈の最初の峰、その頂上に奇妙な旅人が立っている。
漆黒の毛並みが全身を覆い、頭頂に鋭く三角形に立つ耳が小さく動いて周囲の物音を探っているように見える。細くしなやかな体つきでありながら、二本の足で軽々と立ち、バランスを崩す気配もない。黄色い瞳は瞬き一つせず、狩猟者のように鋭く周囲を見据えていた。口元には小さく伸びたヒゲがぴんと張り、ときおり小刻みに揺れている。その奇妙な旅人は丈夫そうな革のジャケットと帽子を身にまとい、大きなリュックを背負っていた。
「計器の数値だと標高6000メートルを超えています。|融合大陸《アビシオン》にはいろんな種族がいますから、不思議というわけではないのかもしれませんけど……こんな山の頂上に一人でいるのは奇妙ですね。旅人でしょうか?」
「分からないけれど……」
イリーナは一度言葉を濁すものの、視線は山頂に立つ小さな影から離そうとしない。
「ただ、こんな場所で一人きりというのは、普通じゃないわ。何か重要な用事があるのか、それとも助けを必要としているのか――とにかく確かめてみましょう。」
そう言うと、イリーナはシルヴィアの方に振り返り、薄く笑みを浮かべた。かなり不穏な状況にもかかわらず、まるで好奇心の方が寒さや恐れに勝ってしまったかのようだ。イリーナはさっと手元の融合撹乱刀(アマルガム・ディスラプター)を手に取り、ミルゼットから飛び降りた。もうすでに足早に旅人の元へと歩みを進めている。
シルヴィアは、イリーナの様子を横目で見て小さくため息をついた。好奇心に火がついたお嬢様は危険を顧みない――これが、イリーナの“悪い癖”だ。どんな場所、存在でも一度興味を持つと誰の言葉にも耳を貸さなくなるのを、シルヴィアはよく知っている。とはいえ放っておくわけにもいかず、仕方なくシルヴィアも足早にそのあとを追いかける。まるで本能に突き動かされるように融合撹乱刀(アマルガム・ディスラプター)を携えて歩み出すイリーナの姿は頼もしくもあるが、どこか危うさを伴っていた。シルヴィアは内心、冷や汗をかきながらも「お嬢様がこうなったら止められないのよね……」と、苦笑いするしかなかった。
風雪の気配が立ちこめるなか、シルヴィアとイリーナは警戒を解かないよう気を払いながらも、その旅人へと歩み寄っていく。凍てつく山頂の空気の中、その小さな影が徐々に大きくなり、くっきりと浮かび上がる。旅人の姿は、どこか不思議な愛嬌を漂わせる。しっぽはわずかに揺れ、その動きから絶えず周囲への好奇心がうかがえる。やがて旅人はふとイリーナたちの方を向き、薄く口元をほころばせた。
「おやおや……?」
その笑みは、一見すると穏やかだが、どこか底知れぬ余裕をはらんでいる。冷たい空気の中に小さく響く声が、二人の胸に微かな警戒心と興味を同時に芽生えさせた。
「やあ、こんな山のてっぺんでお嬢様方と出会うとは、何ともふしぎな巡り合わせですな。もっとも、この|融合大陸《アビシオン》じゃあ、どんな不思議が起こってもさほど珍しくもないのかもしれませんがね」
低く、落ち着いた声だった。何処か飄々としているが、その目には深遠な知識と経験が宿っているようにも見える。
「それにしても、この標高ではマイナス30度近くになると聞いていますが、よくぞそんな軽やかな装いでおいでですねえ。」
つづく旅人の言葉に、イリーナとシルヴィアは一瞬顔を見合わせる。二人はなんら不思議な格好はしていなかった、魔法的処理が施されているもののイリーナは薄手のワンピースに小さなアクセサリー、シルヴィアは侍女らしいシンプルな服と軽めのストールといういでたちだ。
「……おっと、これは失礼しました。わたし、この大陸に来て日が浅いもので、あなた方のような種族を見かけるたびについ、昔いたところの常識で考えてしまうんですよ。いやあ、失敬、失敬。」
イリーナたちの反応をみて旅人は何かを察したらしかった。|融合大陸《アビシオン》はあまりにも広大な大陸だ。イリーナたちと似通った姿をもつ異なる種族がいたとしても、不思議ではない。もっとも、その種族は温度変化に弱いらしいが。
「旅の方、まずはお互い名乗り合ったほうがよろしいかと思いますわ」
イリーナが慎重に声をかけると、旅人は少し肩をすくめるようにして頭を下げた。
「これは失礼しました。わたしは、フォルディアーノ・ルカ・サスケと申します。主が酔狂な方でしてな、異国の言葉を合わせてこんな名にしたのです。友人たちにはルカと呼ばれていますよ」
妙な名だ、とイリーナは内心で思う。少なくともフェイロゼア公国やその周辺国にも、また検索圏内の|記録保全拠点《レコード・ヴォルト》にも、類似する名前も種族名も存在しなかった。
「私はイリーナ・ヴァシネス。フェイロゼア公国に代々仕えるヴァシネス侯爵家の現当主ですわ」
「そして、私は専属侍女のシルヴィアと申します。以後お見知りおきを」
イリーナとシルヴィアが警戒を解かないまま名乗ると、旅人は少し目を丸くしながら、まるで面白いものを見つけた子どものように笑みを浮かべる。
「これはこれは、侯爵家のお嬢様とそのおつきの方でしたか。いやはや、ここはフェイロゼア公国というのですな。どことなく見覚えのある風景や文化があるように思っていましたが、どうやらわたしが知っている場所と通じるところもあるらしい」
そう言うと、フォルディアーノ・ルカ・サスケと名乗った旅人はしばし周囲を見回している。あたかも好奇心のままに旅を続けてきた者のような、穏やかでいて底知れない雰囲気をまとっていた。イリーナとシルヴィアはその姿を見て、警戒を解き始めていた。相手が敵か味方かはまだわからないが、言動の端々にはどこか憎めないあたたかみがあるからだ。
凍てつく山頂の空気は薄く、風は肌を切るように冷たい。それでも三人のやりとりには、一瞬だけ暖かな気配が流れ込んだかのようだった。