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第8話 地方管理局

 イリーナとシルヴィアは、購入したばかりの車で地方管理局の元へ向かった。連絡が取れないという噂が気にかかったが、屋敷やその他の細々とした後処理を依頼する必要があったのだ。赤い装束の集団についても改めて注意を促す必要があった。

 地方管理局に到着すると、そこは騒然としていた。ストーム級戦艦が襲撃された可能性や、ヴァシネス家の屋敷襲撃の報告が錯綜し、どうやら通信妨害も受けているらしく詳細を把握するのが困難な状態だったようだ。

「状況を把握しろ! 第一報からもう丸一日経ってるぞ! 町に向かった兵士からまだ連絡はないのか?!」

 管理官が声を張り上げる様子が遠目に見受けられた。

「はい、襲撃の連絡からすぐに町に向かったはずの兵士達とはあれから連絡が取れません。地域一体の警備ポッドからの応答もありません。我々には何がなにやら。」

 通信士が頼りなく答える。どうやら局所的な警備を担当する警備ポッドも襲われたらしい。襲撃が悟られるのをできるだけ遅くするためだとイリーナは直感した。

「ストーム級戦艦の方の情報は?まったく中央のやつら、自分たちは地方管理局に情報をよこせと度々催促するくせに、地方にはほとんど情報をよこさん!」

「あの戦艦は中央直属だったようですから、ほとんど情報がありません。町に停泊するとだけ連絡が来てそれっきりですよ。」

 その他、いくつかのやり取りが管理官と通信士の間で続いたが報告はどれも断片的で、確かなものは何一つないようだった。イリーナとシルヴィアは事務所に足を踏み入れ、混乱する職員たちを見渡した。

「落ち着いてくださいませ」とイリーナが毅然とした口調で告げる。「私はイリーナ・ヴァシネス。ヴァシネス家の現当主です。屋敷で起こった出来事をお伝えに参りました」

 管理官はイリーナの姿を認めた途端、目を見開き、慌てて姿勢を正し、深く頭を下げた。「こ、これは……イリーナ様! まさかご自身でお越しになるとは……恐れ入ります。ヴァシネス家の屋敷から炎が上がっているとの報告を受け、案じておりました。」

 イリーナの父はかつて軍の将校として名を馳せた人物であり、ヴァシネス家も代々、強い影響力を持つ一族だった。その名は軍関係者の間でもよく知られ、彼女が若くとも、管理官は軽んじることなどできなかった。

 ヴァシネス家の屋敷は国境線に近い。この地域一帯を管理する管理局から屋敷まで軽く|53ヴァーン《132.5km》は離れており、状況を把握するまでに時間がかかるのも当然だった。そもそものところ、ヴァシネス家も所属するこの国、フェイロゼア公国は直径|18リューン《およそ1.5光年》近い巨大な領土を有し、いまだ数多の戦乱の爪痕が各地に残る。

 度重なる領土拡大によって国土の外延は不恰好に引き伸ばされ、当然ながら辺境部には十分な兵力も物資も回ってこない。かくして、ヴァシネス家のある国境付近では、治安維持は名ばかりで、地方管理局が事態を把握するころには被害が広がっていることすら珍しくなかった。

 管理官室に案内された後、イリーナとシルヴィアは、自分たちが把握している限りの情報を管理官に伝えた。ストーム級戦艦の砲撃、赤い装束の集団による侵入、|聖なる力《ホーリー》を操る機械人形、そして古い書庫の存在——。

 話が終わると、管理官は沈痛な表情で頷いた。

「……わかりました。私のような辺境の管理官には、到底理解しきれない事態が起こっているようですね。しかし、ヴァシネス家が襲撃され、犠牲者が出たのは紛れもない事実。そして、赤い装束の集団の存在も気になる。|聖なる力《ホーリー》を操る者が関わっているとなると……神格存在(テオミナス)の関与も考えられる。 もしそうなら、事態は極めて深刻です。」

 管理官はじっとイリーナたちを見つめながら、彼女たちの言葉を一つひとつ噛み締めるように飲み込んでいった。特に、「神格存在(テオミナス)」の関与がほのめかされた瞬間、その表情は明らかにこわばった。

 神格存在(テオミナス)——。
 それは、アビシオンに数多く確認されている超常的な存在。その多くはこの大陸そのものに興味を持たず、独自の亜空間に身を潜めているとされている。しかし、一度顕現すれば、惑星規模程度の国ならば消し飛ばすことなど造作もないほどの力を持つ存在だった。

「ええ、私も気になっていました。神格存在(テオミナス)がこの件に関わっているとすれば、最悪の場合この国の国防問題にもなり得るかと、そう思っていますわ。」

 イリーナも神妙な面持ちで言葉を返した。通常、聖なる力(ホーリー)は神格存在(テオミナス)達本人か、その眷属、または神格存在(テオミナス)から力を授けられた、いわゆる信者達のみが力を振るうことができる。しかし、気まぐれな神格存在(テオミナス)が力を授ける事は非常に稀だと聞く。いくつかの例外を除いては。

「歯車の教会についてイリーナ様もご存じだと思いますが、もし彼らが関わっているとすれば… いえ、これ以上は申しますまい。改めて私の方から中央へは報告を入れておきます。そして、イリーナ様のおっしゃる通り、我々はひとまず兵士を派遣し、現場の整理と調査を進めさせていただきます。」

 管理官は言いかけた言葉を抑え、事務的な手続きへと会話を進めた。「歯車の教会」、神格存在(テオミナス)それ自体が組織したとされる宗教組織。それは唯一アビシオン自体に積極的に干渉しようとする神格存在(テオミナス)の集団。もちろんその軍事力はいうまでも無いほどに強大だ。もしそんな組織がこの件の首謀者なら、イリーナの夢や本の謎を追う目的はあまりにも無謀なのかもしれない。

「どうかお願いします。私はこの旅で、本の謎と襲撃の理由を突き止めてみせます。細かな後処理は、どうかあなたにお任せしますわ。」

 その胸に数多の思い——怒り、疑問、そして恐れが浮かんだが、それを押し殺し、イリーナは毅然とした表情で管理官に別れを告げた。

 管理官は、その姿を静かに見つめる。

 18歳——。まだあどけなさの残る年頃だ。
 自分の娘ほどの年齢の少女達が、命の危険も顧みず、未知の旅に出ようとしている。

「……管理官としては、本来、あなた達を止めるべきなのでしょう。しかし——」

 彼は深く息を吐いた。言葉を続けるべきか、迷いながら。

「私はあなた方の親ではありません。ですが……自分の娘ほどの年頃のイリーナ様達が、こんな危険な道へ向かうのを、何も言わずに見送るのは辛いものです。」

 そう言いながらも、彼は知っていた。
 目の前の少女達はただの「若者」ではない。決意を秘めた人間、しかもあのヴァシネス家の令嬢と専属侍女だ。

「……それでも、これ以上深入りするなとは言えません。どうか、ご無事で。」

 彼は目を閉じ、静かに頭を下げた。