第10話 惑星融合
「では聞きたいのだけれど……フォルディアーノ・ルカ・サスケ、とおっしゃるのよね? 長いので、あなたのお友達を同じくルカとお呼びしますわ。あなたはここで何をしているの?」
イリーナが声をかける。しかし、旅人──ルカ(フォルディアーノ・ルカ・サスケ)は答える代わりに遠くを指さした。
「ほら。あすこをご覧なさい」
フェイロゼア公国の言葉としては、すこしなまりを感じるその声には妙な熱がこもっていた。まるで人智を超えたものを目撃した興奮と、同時に呑まれてしまいそうな恐れとが混ざり合った響きだった。
イリーナとシルヴィアは、ルカ(フォルディアーノ・ルカ・サスケ)のすぐ背後に立っていたため、彼の視線の先にある景色は見えず、澄み渡る空とルカの姿しか目に入らない。ふたりは少し戸惑いながらも足元を確かめつつ、山頂のわずかに高くなった位置へと回り込むように進む。すると、ようやく視界が開けた。
深遠な青の空が一気に広がり、厚い雲の海ははるか下方に遠のいている。晴れ渡る空の奥底、わずかに漂う淡い光の中で、巨大な惑星がゆっくりと、しかし確かに|融合大陸《アビシオン》へと融合しようとしている様が浮かび上がった。
あまりにも広大で強大だった。圧倒的な規模の光景に、イリーナとシルヴィアは思わず息をのむ。旅人の声に宿る興奮と恐れの理由が、いまのふたりには少しだけ分かった気がした。
それは数万キロ先にあるはずだというのに、あまりにも大きすぎて、まるで手を伸ばせば届きそうに思えるほどの臨場感を伴っていた。惑星の輪郭はまるで空そのものを覆い尽くすかのように広がり、かすかな隆起や谷が目視できるほどの精緻さで浮かび上がっている。融合大陸と衝突する境目には、虹色の揺らめきが見え隠れし、それが時折雷鳴めいた光を放っては消えた。
ときおり、はるか遠方から、地鳴りに似た低いうなり声がかすかに響いてくる。それは惑星の表層と|融合大陸《アビシオン》の結節点がこすれ合う音か、あるいはこの大陸が新たな世界を受け入れるときに発する"嘆き"のようにも聞こえた。まるで空気自体が押し広げられ、音も光も深い水の底を伝わるように、もったりと鈍い振動を引きずりながら広がっていく。
一方、イリーナの視線の隅で、ルカは不思議な静けさをたたえていた。彼の眼差しは、あの惑星に注がれているというよりも、もっと先、融合された先に訪れるであろう大いなる未知の運命を見据えているようだった。何千何万という生物の棲む世界の1つが、今この大陸に呑み込まれるように合流する。そしてここで新たな歴史を刻む。その壮大な光景は、神話めいていながらも、同時に息苦しいほどの現実味をはらんでいた。
「すごい……」
イリーナは思わず声を漏らした。それは、喜びでも恐れでもなく、ただあまりの大きさに圧倒された、本能的な感嘆だった。大陸が星を取り込み、また1つ成長し、さらに混沌へと広がっていく。そんな途方もない出来事が、いま、目の前で起きているのだと思うと、ただただ圧倒されるばかりだった。
しばらく無言が続いた後、ルカはようやく口を開いた。けれどその言葉は、イリーナの疑問に答えるものではなく、ただひとこと呟いただけだった。
「……ここにいれば、ぜんぶ見届けられる。そうでしょう?」
その声は限りなく遠く、しかし隣にいるはずの彼の息遣いよりも近しく聞こえた。まるで、この世ならぬものを見つめすぎた者だけがたたえられる淡い狂気と、聖者の予感がないまぜになっているかのように。そんなルカの横顔と、空を埋め尽くそうとする惑星の姿。イリーナは、どちらがより神秘的なのか、分からなくなりかけていた。
すぐそばに立つシルヴィアの息が、かすかに震えているのが聞こえる。
「……本や資料では見たことがありましたが、実際に見ると……」
あまりの光景に圧倒されながら、シルヴィアがぽつりと声をかけた。|融合大陸《アビシオン》が生まれてすでに途方もない時が経っている。大陸は数多の惑星を取り込み、融合を繰り返してきた。また、1度の融合は数百年以上にも及ぶ期間で行われる。その過程を、生きている間に直接目撃する機会は、|融合大陸《アビシオン》の広大さもあいまってほとんどないのだった。
「|融合大陸《アビシオン》に星が融合される時、そこに|融合石《アマルガムストーン》が生まれるといいます。莫大なエネルギーを秘めたその鉱石は、この大陸を豊かにするが、同時に争いも生んでいる」
ルカの言葉に、二人は改めて目を凝らした。惑星の周囲には無数の飛行戦艦が展開している。|融合石《アマルガムストーン》をめぐり、フェイロゼア公国をはじめとして各国の艦隊が群がっているのだ。惑星が融合しようとする場所は複数の国の国境線をまたいでおり、その影響で各国の思惑が交錯し、緊張が高まっていた。
「数年前から聞いていた惑星融合の話はこれのことね。」イリーナは静かに呟いた。「周辺から軍を集めているせいで、ヴァシネス家に近い国境線がさらに手薄になったんだわ。」
彼女の視線は遠くの戦艦の光を映しながら沈んでいた。まるで、この瞬間すらも歴史の大きな波の一部に過ぎないと悟っているかのように。
シルヴィアはそんな彼女の横顔を見つめ、静かに息を吐いた。「争いの火種は尽きないものですね。」
イリーナは首を振る。「これだけの勢力が関与しているなら、どこかで衝突が起こるのは避けられないでしょうね。誰もが理想を掲げながらも、現実はそううまくいかないものよ。」
ルカはしばらく無言だった。視線を遠くへ向けると、いつの間にか一隻の飛行戦艦が黒い山脈の上空を静かに進んでいた。遠目ではあるが、あの惑星よりも遥かにこちらに近い距離を飛んでいる。あの戦艦もまた、あの果てしない諍いの中へと向かうのだろうか。
イリーナがゆっくりとルカへ視線を戻した時、ルカがぽつりと呟いた。
「……言語、思想、人種、姿形、何から何まで違う我々が分かり合うというのは、それこそ夢物語なのかもしれませんなぁ」
そう呟くルカは、どこか遠くを見るような目をしていた。旅人の横顔には、諦観と呼ぶにはあまりにも静かな、しかし決して希望を見失ってはいないような光が微かに漂っている。彼の淡い毛並みと穏やかな息遣いを感じるたびに、イリーナたちは胸の奥で複雑な思いを抱かずにはいられなかった。姿形も文化も違う彼との間に、一気に距離が広がったように思えたのだ。
イリーナは言葉を探すように唇を開きかけたが、ルカはふと耳を動かし、二人に向き直った。
「ところで、お嬢様方は、どうしてこんな高い山の頂まで? あなた方のような麗しいお嬢様方が、この辺りを訪れるのは珍しいように思えますが」
もっともな疑問だった。イリーナは目の前の旅人をどこまで信用していいのか少し考えたが、同じ夢を何度も見ること、その夢の内容、シュバルツ・ノワールという言葉、そして古い本のことは伏せつつ、「セヴェ***」という単語についてルカにかいつまんで説明した。
「なるほど、その夢の謎を追うために旅をしているということですな。いやはや、興味深い。草原、深い水底の小川。沈んでいく白い服の女性。この辺りは私にもさっぱりですな。」
「しかし、その"セヴェ***“という言葉……私が知っている単語のような気がします。」ルカはゆっくりと言葉を選ぶように続けた。
イリーナ達は息をのんだ。ルカは、何か知っているのか?
「私の知る限りでは、“セヴェ"で始まる名前や言葉は、そう多くはありません。しかし」ルカは少し視線を遠くに向け、慎重に言葉を紡いだ。
「この大陸には、いくつもの古代の伝説が語り継がれています。それは伝説とされていますが、実際には悠久の時を経て変質した歴史そのものだと私は解釈しています。この|融合大陸《アビシオン》の創生、数多の種族、神や悪鬼羅刹の類、機械でさえも交わる最初の時代、その記憶が残されているのです。“セヴェ***“というのはおそらく、それらを創り出した張本人、創生の神のこと」
「……“セヴェラ”。」
ルカがその名を口にした、その瞬間、轟音が空を引き裂いた。
眩い閃光が山の斜面を焼き払い、爆発が連鎖するように広がっていく。大地が震え、砕けた岩が弾丸のように飛び散った。熱風が荒れ狂い、硝煙が視界を曇らせる。
「っ……! 砲撃、ですお嬢様!」
シルヴィアが咄嗟にルカの腕を引き、イリーナは二人を庇うように身を低くした。轟音が耳をつんざき、周囲の岩が崩れ落ちる。
ルカはゆるりと顔を上げた。
「ほう……」
遠くに浮かぶ飛行戦艦が旋回し、再び砲門を開く。その動きは、あらかじめ標的を定めていたかのようだった。イリーナは険しい表情を浮かべた。
「まさか……先ほどの飛行戦艦。あれはストーム級……! 赤い装束の者たちだわ……!」
こんな状況にもかかわらず、ルカは静かに飛行戦艦を見つめ、動きを冷静に観察しているようだった。
「次の砲撃が来ます! すぐにここを離れましょう!」
イリーナの声に、シルヴィアは即座に反応し、こめかみに指を当てる。
「ミルゼット500、緊急呼び出し!」
シルヴィアの瞳に青く細かな文字列が浮かび上がる。遠隔通信の信号が発信されると、谷の奥から重厚な轟音が響いた。
霧を切り裂くようにして、白銀の流線型を持つミルゼット500が疾走してくる。多脚機構が滑るように岩肌を踏みしめ、前面のライトがまばゆく光った。
「お乗りなさい!」
イリーナが扉を開く。しかし、ルカは微動だにせず、悠然と戦艦を見つめていた。
「……ルカ様!」
シルヴィアが少し怒った声を上げながら、ためらいなく彼の体を抱える。その瞬間、ふわりとした感触がルカの体に触れた。ルカの表情は変わらなかったが、一瞬だけビクッと体を震わせ視線が泳ぐ。シルヴィアの動きは迷いなく、彼をしっかりと抱え上げる。その力強さは頼もしいものの、ルカにとっては久しく味わったことのない距離感だったのだ。
「やれやれ、私もお嬢様方と逃げるということなのですな。それにしても力持ちでいらっしゃる。」
次の瞬間、シルヴィアは迷いなくルカの体を支え、そのまま素早く車両へと押し込んだ。
「飛行モード、起動!」
車体がわずかに振動し、下部からブースターが展開される。その瞬間、第二射が解き放たれた。
轟音とともに地表が爆炎に包まれ、吹き飛んだ瓦礫がミルゼット500の装甲をかすめる。
「加速しますわ!」
シルヴィアが操縦桿を引くと、ミルゼット500はふわりと浮き上がり、次の瞬間、ジェット噴射とともに急上昇した。暗雲を突き抜け、火砲の雨をかすめながら、一気に高度を上げていく。
ルカは座席に身を預けながら、戦艦の方を一瞥した。
「さてさて、旅は道連れ世は情けという古い言葉がありましたな……」
彼が言葉を続ける間にも、飛行戦艦の影はゆっくりと旋回し、新たな砲撃の準備を始めているようだった。イリーナはそれを確認すると、短く指示を出す。
「高度を上げなさい、シルヴィア!」
「了解しました、お嬢様!」
シルヴィアが操縦桿を引くと、ミルゼット500はさらに加速し、暗雲の中へと滑り込んでいった。
炎と黒煙の世界が遠ざかり、視界の先には、夜の帳が広がっていく。
ルカはゆっくりと目を閉じ、静かに息を吐いた。
「……どこへ流れ着くのやら。」
ミルゼット500は、夜闇へと溶けるように消えていった。