深度: -1500m

第7話 機駆商会

 内熱機関式小型エンジンが静かに唸りを上げ、イリーナとシルヴィアを乗せたミルゼット500は田舎道を進んでいた。舗装の不完全な道は所々で小石が散らばり、草の生い茂る脇道からは風が吹き抜けるたびに土埃が舞い上がる。車輪が柔らかく地面を蹴り、時折多脚機構が自動的に起動して、段差を軽やかに乗り越えていった。

 イリーナは運転席でハンドルを握り、目を輝かせながら操縦していた。彼女の手つきは慣れたもので、泥濘の道でも滑らかにギアを切り替え、最適なルートを選びながら進んでいく。その銀色の手が、まるで生身の頃と変わらぬ精巧さでハンドルを操っているのを、隣のシルヴィアは目の端で捉えていた。

 機駆商会(オムニギア・トレーダーズ)で調達した義手は、すでに彼女の一部となったかのようだった。 まるで元々そうであったかのように、イリーナの思い通りに動く。

窓を少し開けると、草原の爽やかな香りと共に、遠くの森から鳥のさえずりが聞こえてくる。

「静かで落ち着いた場所ですわね」

 彼女の声に、助手席に座るシルヴィアが微かに微笑む。

「ええ、お嬢様。こうした道は舗装された街路とは違い、心を穏やかにするものです」

 イリーナは満足げに頷くと、エンジンの音を確かめるように軽くアクセルを踏んだ。ミルゼット500はまるで生き物のように柔軟に道を選び、滑るように進んでいく。時折、道端に佇む動物達が驚いたように顔を上げるが、ミルゼットの静粛性のためか、すぐに再び草を食み始める。陽が傾き始め、金色の光が遠くの丘を包み込み、影がゆっくりと長く伸びていく。ヴァシネス家の屋敷からすでに|1000ヴァーン《約2500km》の距離を進んでいた。

 出発前、二人は|記録保全拠点《セントラル・ヴォルト》へ向かうため、移動手段を手配する必要があった。屋敷の車両は全て破壊されるか瓦礫の下に埋もれてしまっていたからだ。イリーナはシルヴィアを伴い、湖畔の町にある機駆商会(オムニギア・トレーダーズ)へと足を運んだ。

 湖畔の町に足を踏み入れると、いつもの穏やかな空気は見る影もなく、人々がせわしなく行き交い、騒がしいざわめきが漂っていた。町の中心部へ近づくにつれ、胸の奥にじわりと不穏な気配が染み渡ってくる。聞けば、ヴァシネス家の屋敷を襲った戦艦が赤い装束の集団に強奪された際に地元の憲兵も襲撃を受けたという。さらに、この一帯を警護しているはずの地方管理局とは連絡が途絶えているらしい。

「お嬢様、憲兵が屋敷に駆けつけてこなかった理由はやはり…」

「ええ、屋敷を襲撃した者たちはよほど書庫の本が欲しかったのね。邪魔が入らないように、ずいぶん綿密に手を回してるようだわ」

 イリーナたちが襲撃に対して何か有効な手立てを打てたわけではない。それでも、原因の一端がヴァシネス家の書庫にあるのだと思うと、どうしようもない罪悪感が胸を刺した。

 町の通りをさらに進んでいくと、機駆商会(オムニギア・トレーダーズ)の看板が見えてくる。店先には臨時の見張りが立ち、客の対応に割く余裕もない様子で、周囲を警戒する視線を走らせていた。イリーナはその見張りに軽く会釈をしてから、機駆商会(オムニギア・トレーダーズ)の扉を押し開く。こういった辺境の土地では、移動手段や装備が文字どおり“生命線”と呼べるほど重要だ。

 店内には、荒れた道でもしっかりと走行できるよう改良された頑丈な車両が数多く並び、その周囲には旅人や傭兵向けの補給物資、工具、武器といった品々が棚やケースにぎっしりと詰められている。修理キットや交換用のパーツ、果ては簡易式のエーテルエネルギーパックまで、必要なものは一通り揃いそうだった。小太りの店主が軽くイリーナたちを一瞥し「いらっしゃい」と声をかけた。

イリーナとシルヴィアが店内を歩いていると、ある一角に目を引かれる。そこには義手や義足といった補綴装具のコーナーがあり、各種の機械義肢が精密な作りで並べられていた。イリーナの腕は機械人形との戦いで失われている。代わりの腕が必要なことは二人とも暗黙のうちに理解していた。

「……」

イリーナの視線が、一つの義手に吸い寄せられる。銀色の装甲を持つそれは、明らかに戦闘を前提としたモデルだった。 指の関節には高密度の合金が仕込まれ、瞬時に変形する伸縮機構が備わっている。通常の動作補助のほか、瞬間的なトルク強化機能を持ち、打撃武器としても使用可能だという。

「……お嬢様」

シルヴィアが静かに呼びかけた。その声には、僅かな動揺が滲んでいた。

「この義手にしますわ」

イリーナの声は静かだったが、確かな意志が込められていた。

小太りの店主がさっと近づき、義手の仕様を説明する。

「こちらはヴァルシュ・モデルEXでさぁ。ほら、最近戦闘もめっきり減ったもんだから、軍の払い下げ品が出たんでさぁ。戦闘用に設計されたモデルで、通常の義手より耐久性とパワーを重視してんです。生体義手ではありませんが、神経接続すれば高度な操作が可能になります。負荷はかかりますが……ただ、お嬢さんにこれが必要ですかねぇ?」

「構いませんわ」

イリーナは義手を持ち上げ、その重量を確かめるように関節部分を曲げる。滑らかな動き、無駄のない設計。

「お嬢様、もっと元の腕に近い生体義手もございますが……」

シルヴィアの声には、わずかにためらいがあった。

「わかっていますわ」

イリーナは穏やかに微笑んだ。

「でも、私はもう“普通の令嬢”ではいられませんの。戦わなければならない。そうでしょう?」

彼女は視線を上げ、シルヴィアをまっすぐに見た。

「……かしこまりました、お嬢様」

シルヴィアはそっと目を伏せ、もはやそれ以上は何も言わなかった。

イリーナは義手を購入し、その場で取り付けてもらうことにした。フィッティングの間、彼女はじっと天井を見つめ、何も言わなかった。痛みはない。だが、重さはあった。 それは戦う者としての重みだとイリーナは感じていた。

そして、新しい手を得たイリーナは、軽く指を動かし、その感触を確かめた。銀色の義手は驚くほどしなやかに動き、生身の頃と変わらぬほど自然に彼女の意思を反映していた。

彼女は改めて店内を見渡す。次に必要なのは移動手段だった。

指先で無造作に棚の縁をなぞりながら、店内の車両コーナーまで歩いていく。動作に違和感はない。それどころか、義手の重みが心地よくさえ思えた。

しばらくすると、彼女の視線は、ただ一台の車両へとまっすぐに吸い寄せら。

「これですわ!」

 彼女が指差したのは、三ツ葉重工業製の環境対応型万能車「ミルゼット500」。丸みを帯びたコンパクトな車体は、クラシックな趣を持ちながらも、どこか近未来的な洗練を感じさせるデザインだ。フロントには丸型のヘッドライトが二つ並び、シンプルながら愛嬌のある顔つきが特徴的だった。車体のカーブは流れるように整えられ、どの角度から見ても調和の取れたバランスを感じさせる。小型ながら、小回りの利く設計と陸海空すべてに適応可能な機能を兼ね備え、さらに多脚機構も搭載している。

「お嬢様、本当にこれでよろしいのですか? 少々マニアックな選択かと……」

 シルヴィアの問いかけに、イリーナは即座に頷いた。

「まあ、そう思うのも無理はないでしょうけれど、シルヴィア。この車は三ツ葉重工業の粋を集めた逸品ですのよ。走破性、適応性、拡張性……すべてにおいて完璧ですわ!」

 イリーナは車の艶やかなボディを撫でながら、その魅力を惜しげもなく語り始めた。彼女の説明は次第に熱を帯び、ミルゼット500の試験走行のデータや過去の名車との比較、さらには三ツ葉重工業の開発哲学にまで話が及んだ。

 シルヴィアはそんな主の姿に内心苦笑しつつ、しかし彼女が本当にこの車を気に入っていることを察し、もはや異を唱えるつもりもなかった。

「かしこまりました、お嬢様。では、このミルゼット500にて目的地へと向かうといたしましょう」

 優雅に頷くイリーナ。その場で購入を即決し、イリーナは自身の生態ウォレットを用いて支払いを済ませた。淡い光沢を纏う車体に満足げな表情を浮かべ、彼女は新たな銀色の義手でハンドルを握るのだった。