深度: -1500m

第6話 夜明け

 静寂に包まれた果てしない草原に、風がそよそよと吹いていた。柔らかな小川のせせらぎが遠くで響き、花々が風に揺れる様子が目の前に広がっている。

 イリーナはその美しい光景を眺めながら、どこか不安な気持ちを抱えていた。この夢は何度も見ているものだ。しかし、今日は何かが違う。

 草花の間から現れた小さな小川。それには不釣り合いなほどに虚ろな深淵の水底が口を開けていた。そしてその水底から、白い服を着た女性がゆっくりと沈んでいくのが見えた。彼女の髪が水中で揺れる様子が鮮明に映り、イリーナの胸に冷たいものが走る。

「――あなたは誰…?」

 問いかけた瞬間、草花が炎を上げ始める。果てしない草原があっという間に炎に包まれ異様な光景が目の前に広がっていた。炎の上げる轟音の中、黒い煙が激しく立ち上り草木の焼ける匂い、いやそれだけではないこれは生き物の焼ける匂いだ。暗い水底は相も変わらず暗い虚ろな水底をみせていたが、今はそれが大きく口を開け、より恐ろしい何者かに見えた。逃げなければ! イリーナは必死に体を動かそうとするが体は緩慢に動かない、草木を飲み込んだ赤黒い炎がイリーナに迫っていた。

「シュバルツ・ノワール」

 あの言葉が聞こえると同時に、視界は崩れ落ち夢が断ち切られた。

 イリーナが目を覚ますと、彼女は冷たい瓦礫の中に横たわっていた。上空には朝焼けの光が差し込み、周囲は廃墟と化している。自分の左腕に鈍い痛みを感じた。

「お嬢様!気がつきましたね!」

 シルヴィアの声が耳元で響く。彼女は必死にイリーナの手当てをしていた。

「まだ生きてる…のね。」イリーナは疲れ切った声で言った。「左腕はどうなってるの?」

「損傷はひどいですが、大丈夫です。時間がかかりますが修復できます。ただ、無理はしないでください。」シルヴィアは優しく言いながらも、どこか焦りを含んだ声だった。

「そう…ありがとう、シルヴィア。」

 彼女の支えを借りながら立ち上がったイリーナは、目の前の景色に息を呑んだ。
 かつて壮麗だった屋敷は、今や瓦礫の山と化していた。崩れた壁の隙間から朝の光が差し込み、砕けた柱や倒れた調度品を淡く照らしている。朝焼けのオレンジと金色の光が瓦礫の隙間を滑るように広がり、埃が舞い上がるたびに光の粒が揺らめいた。

 どこかで瓦礫が小さく崩れる音がした。朽ちた扉が風に揺られ、きしむ音を響かせる。
 その静寂が、かえって胸を締めつけた。

「私は守れなかったのね、あの書庫の本も奪われてしまった…」イリーナは目を伏せ、膝をつきそうになったが、シルヴィアが肩に手を置いた。

「お嬢様、本は奪われたかもしれませんが、少なくともお嬢様の指示のおかげでバトラーや侍女たちの多くは生き残っています。」

 イリーナの心臓がドクンと大きく波打った。そうだ、昨夜は屋敷と書庫を守ることで頭がいっぱいだった。たとえバトラーや他の侍女たちを早めに逃がしたとはいえ、十分な気配りができていなかったのではないか——そんな思いが胸の奥でゆっくりと膨らむ。
 まるで心臓にじわりと釘を打ち込まれるように、ドクン、ドクン、と響く鼓動が痛みを伴って襲ってくる。

「みんな……無事なの?」

 震える声でそう問うイリーナの瞳には、不安と後悔が入り混じっていた。

「はい、先ほどバトラーから連絡がありました。多くの者は無事です。ただ、数人ほど見当たらない者がいると。」

 シルヴィアの言葉に、イリーナは胸を締め付けられるような悲しみと安堵を同時に覚えた。あれほどの攻撃だ、やはり全員が無事というわけにはいかなかったのだ。それでも、バトラーと侍女たちのほとんどが無事だったという事実が、わずかに救いをもたらしていた。

「シルヴィア、バトラー達にはそのまま家や故郷に帰るように伝えて。ここに来れば、またあの赤い装束の集団が襲ってくるかもしれないわ。」

 狙いはあの書庫の本だったことは確かだろうが、それ以上のことが分からない以上彼らを危険に晒すわけにはいかなかった。

 イリーナとシルヴィアは見当たらない者たちの探索と、屋敷の状態の確認のため改めて崩れた屋敷の探索を行った。シルヴィアはしばらく休むようにイリーナに促したが、イリーナ自身はとても体を休めるような心境になれなかったのだ。

 美しい朝焼けに照らされながら、廊下は崩れ落ちた柱や瓦礫で荒れ果て、焦げついた臭いがうっすらと漂っていた。その中を進むうち、イリーナたちは動かなくなった侍女たちの姿を、ひとり、またひとりと見つけていった。その中には一昨日の朝にホールでイリーナと言葉を交わした侍女も混じっていた。惨状に足がすくむイリーナの胸には、深い悲しみが容赦なく押し寄せてくる。

 やがて、イリーナとシルヴィアの二人は震える手で遺体を瓦礫から運び出した。イリーナは片腕でできる限り慎重に支え、シルヴィアがそれを手助けする。破れかけの布をかぶせて一か所に集めると、その場でできうる限りの墓標を作り、静かに埋葬を済ませた。いつもは冷静なシルヴィアが時たますすり上げるような声を漏らし、涙を必死に押さえている。二人はわずかな合掌とかすれた声しか紡げなかったが、それでも確かな思いを込めて祈りを捧げた。決して報われぬかもしれない——それでも、悼む心だけはここに残すように。

「この借りは必ず返すわ…」

 イリーナは悲しみと共に、強い決意を心に刻むように、静かに言葉を声に出した。

 その後しばらく、二人は屋敷の廃墟からまだ使えそうなものを漁った。これからのことは何も決まっていないに等しかったがひとまずここから移動した方が良いことは確かだった。

 瓦礫の中を探している最中、イリーナはふと光るものを見た気がした。チラチラとまるで水の水面のように光が波打ちイリーナの目に執拗に飛び込んでくる。屋敷の瓦礫の中には様々な装飾品があったため少々光るものがあったとしても不思議ではなかったが、その光は異様にイリーナの気を引いていたのだ。

 イリーナは光の方に向かっていった。それは瓦礫の中にそのほとんどが埋まっており、ほんの少しの隙間から光が漏れ出ていた。

「これは…」

 ゆっくりと、イリーナは光を放つものにかぶさっていた瓦礫や土をはらった。あの本だった。あの古い書庫で最初に見つけた銀の刺繍の本。その銀の刺繍が朝日に反射し異様に光を放っていたのだ。イリーナは慎重にその本を瓦礫の隙間から取り上げた。様々な感情をのせて心臓の鼓動が大きくなる。イリーナは慎重に本を開いた。あれだけの戦いの後だ、本がこの屋敷のように、これまでの平和な日々のように、はかなく崩れ落ちないか不安だった。

「セヴェ・・・」――という言葉がイリーナの目に飛び込んでくる。あの時と同じ、最初にこの本を開いた時と同じように「セヴェ・・・」という言葉がわずかな引力を持つようにイリーナを引き付けていた。深い感覚が胸の奥にひっかかる。あの夢の中でその言葉を聞いたような、知っているような。しかし、今もその意味を掴むことができない。

「やっぱり、ただの本じゃない。この文字…夢で見た光景と何か繋がってる気がする。」イリーナはページをめくりながらつぶやいた。

「お嬢様、もしかしてその本は、例の本ですか?」

 シルヴィアが心配そうに近づいてきた。両手にまだ使えそうな物品をいっぱいに抱えている。そんなシルヴィアの姿にイリーナは少し心が和らいだ気がした。

「いえ、これはちょっと違う本なの。私が守りたかった本とは少し違う。」

「そうですか..」

 シルヴィアは少し肩を落としたが、イリーナはすかさず言葉を続けた。

「でもね、この本も何か私の夢の手がかりなことは確かなの。この本に出てくる言葉、その言葉が何か私の夢に関係しているのを感じるのよ。」

 そう言ってイリーナは銀の刺繍の本をめくりシルヴィアに見せる。

「これは、古代文字か何かでしょうか?この周辺、|1リューン《およそ1光月》範囲の|記録保全拠点《レコード・ヴォルト》ではこの文字に該当する言語体系は存在しなさそうです。」

 シルヴィアが即座に個人端末での最大広域で|記録保全拠点《レコード・ヴォルト》に検索をかけ、返答する。シルヴィアの眼球にはさっと文字の羅列が見え隠れしていた。

「そう、私が検索した時も同様だった。おそらくこの文字は、はるか遠くの文明のものね。それこそ、何万リューンも彼方の土地のものかも。この国の地方にある|記録保全拠点《レコード・ヴォルト》では役不足ということね。」

 イリーナはあの古い書庫でこの本を見つけたその時に、この解読が困難な古い言語の意味を理解するには専門家の助けが必要だとすぐに気づいていた。

「この本を解読するには、|中央記録保全拠点《セントラル・ヴォルト》に行くしかないわ。」

 シルヴィアはその言葉にすぐに反応した。「我が国の|中央記録保全拠点《セントラル・ヴォルト》ですか?ここから13リューンは離れています。|羅生門《ワープ・ゲート》を超える必要がありますね。少々危険な旅になるかと。」

「それでも行く必要があるの。」イリーナは力強く言った。「この本に隠されたものを解き明かさなければ、私は次に進めないと思う。それに、この本と私の夢の謎を追えばおそらくあの赤い装束の奴らにもたどりつく。」

 イリーナはここで深呼吸をし、少しためらうように次の言葉をつづけた。

「シルヴィア。ここからの旅は私個人の目的の旅。屋敷の侍女としてのあなたの仕事からは逸脱してる.. だから。これからの旅についてこなくていいのよ。」

 シルヴィアはイリーナが言葉を終えるまもなく、毅然とした声で言った。「私もお供します。お嬢様一人で行かせるわけにはいきません。」

「で、でもシルヴィア。これは私の夢を解き明かすだけの旅よ。こんなことにあなたを巻き込むわけには..」

「お嬢様。」シルヴィアは一歩前に出て、まっすぐにイリーナを見つめた。「私は侍女として仕えているかもしれませんが、それだけじゃありません。お嬢様もわかっているでしょう?私たちはずっと一緒に育ってきた。私はお嬢様を本当の姉妹のように思っています。」

 イリーナの目がわずかに揺れる。彼女たちは血がつながっていなくても、同じ屋敷で同じ時間を過ごし、互いのすべてを知っていた。だからこそ、イリーナはシルヴィアを思い、旅路を共にしない決断をしようとした。しかし、その瞬間、シルヴィアもまた、必ずそばにいると決めていたのだ。

「……でも、危険かもしれないのよ?」

「ええ、覚悟しています。でも、一人で行かせるなんて、そんなこと……できません。」シルヴィアは少し微笑んだ。「それに、お嬢様の夢が導くもの……私も知りたいのです。」

 イリーナは小さく息を吐いた。そして、ゆっくりと微笑む。

「……ありがとう、シルヴィア。」

 それは感謝だけではなく、深い信頼のこもった言葉だった。

 こうしてイリーナたちの長い旅は、この二人で始まることになる。