第2話 砲火の夜
イリーナはその日、頭の中が早朝の書庫での出来事に支配されていた。あの不思議な夢、そして見つけた古ぼけた本。そこには「セヴェ***」という不完全な文字列が記され、さらに「シュバルツ・ノワール」と書かれた巻物とあの胸を締め付けられる感覚。それはただの古い記録にすぎないのか、それとも得体の知れない意味を秘めているのか。考えはまったくまとまらないまま、イリーナは気もそぞろに朝食の席へと向かった。しかし、あまりに上の空だったため、バトラーやシルヴィアに何度も声をかけられ、ようやく食が進む有様だった。
結局イリーナは夕方近くまで古ぼけた書庫と本、あの巻物のこと、自分の夢について考え続けていた。そんなに悩むのであればまたあの書庫に向かえばよいのに、とイリーナも分かっていた。だが、あの書庫の静寂さと、冷たさ、日の差さない闇の深さが、逆にもっと破滅的な何かを見つけてしまうかもしれない。と、イリーナにそう思わせ、なかなかあの書庫へ足を向けようという気持ちになれなかった。
「お嬢様、そろそろお休みになった方がよろしいかと。」
イリーナはハッと我に返って顔を上げた。朝食を終えてからずっと自室に籠もり、思考の迷宮を彷徨っていたことに、今さらながら気づいたのだ。
きっと、昼食にも姿を見せないイリーナを案じたシルヴィアが運んできてくれたのだろう。隣の机には手つかずのまま冷えきったパンとコーヒーが置かれ、寂しく哀愁を漂わせている。シルヴィアの声に促されてイリーナがあたりを見渡すと、いつの間にか日が暮れていた。その暮色に包まれた室内は、いつもの自室とは違うまるでどこか遠く薄闇の異界へと続く入り口のように虚に暗く思えた。
「ええ…ありがとう、シルヴィア。明日はもう一度書庫を調べてみるわ。」
そう言い残し、イリーナはベッドに身を投げた。今の言葉は自らに言ったものだと分かっていた。あの書庫へ、破滅的な何かを見つけるとしてもあの書庫へ向かおうと、そういう決意を自らに問いかけたのだ。だがしかし、心のどこかにやはり不安が漂っていた。しばらく、不安と決意の間で揺れ動いていたイリーナだったがやはり疲れていたらしく眠りに落ちるまでの時間は短く、イリーナの意識はすぐに暗闇に飲み込まれた。
果てしない草原。そこに彼女は立っていた。そこに一本の小さな小川、花々が咲き乱れ、草が生い茂り、まるで小川を隠すように被さっている。こんなに晴れ晴れとして美しいのに、その静寂とそよ風の音がどこか切なさと悲しさ、そしてもっと暗い気持ちを呼び起こさせた。彼女は小川に近づく、小さな小川に似つかわしくない暗い虚ろが目の前に現れる。暗い暗い水底。きっと底など無いのだ。どこまでも続く絶望の果て。そして水面に純白の服を着た女性がいた。彼女は沈んでいく、ゆっくりとしかし確実に。私は手を伸ばすけれど、液体にまとわりつかれたように体は緩慢にしか動かない。また、間に合わない沈んでいく。
すると突然、純白の女性の目が開かれた。
「め、、て。めざ、、て!目覚めて!イリーナ!」
轟音と振動がイリーナの意識を現実へと引き戻した。彼女が目を覚ましたとき、耳に飛び込んできたのは爆発音と、割れるガラスの音だった。ベッドから飛び起き、窓の外を見ると、湖畔に停泊していたストーム級飛行戦艦が屋敷に向かってくると同時に砲撃を加えている光景が目に入る。空が炎で染まり、緊急警報が屋敷中に鳴り響いていた。
「お嬢様!」
部屋の扉を開けて飛び込んできたのはシルヴィアだった。彼女の顔には明らかな焦りが浮かんでいる。
「敵襲です!屋敷が攻撃されています!」
イリーナは咄嗟に服を掴み、シルヴィアに導かれながら廊下を駆け抜けた。
「屋敷の防御シールドはどうなってるかしら?!」
廊下をかけながらシルヴィアに現状確認を行う。
「数発の砲撃の後、即座に起動させました。しかし、旧式の光学式シールドではあの新型艦の融合砲(アマルガム・キャノン)をいつまでも食い止めることは難しそうです。」
「あれは、我が国の艦でしょう?なぜ攻撃してくるの!?」
続けざまにイリーナは質問する。できるだけ早く多くの情報を把握しなければ。今は、味方に攻撃されているのだ。とすれば、状況は非常に複雑に違いない。情報が欲しい。
「わかりません、あの艦からの通信はなく。バトラーが今本国中央へ緊急通信を送っていますが、中央へは13リューン(1リューン = 1光月)は離れています。回答には亜空間通信でも24時間を要すると思われます。」
シルヴィアは焦りながらも申し訳なさそうに言った。バトラーや侍女たちは屋敷の防衛シールドを起動させ、なんとか時間を稼ごうとしていた。しかし、状況は明らかに不利だった。この屋敷の防衛システムは遥か昔、国境線がここから約22ヴァーン(1ヴァーンは2.3km)の距離にあったとき、この屋敷が砦として使われていた時代の代物だ。新型のストーム級飛行戦艦の火力に対抗するにはいささか心許なかった。
イリーナが状況確認を急ぐさなかにも、屋敷の上空を覆う防御シールドが、赤く燃え上がるように何度も衝撃波を広げていた。敵艦から発射された融合砲(アマルガム・キャノン)の光弾が、重い低音を伴いシールドを激しく叩く。その度に、シールドは稲妻のようなひび割れを生じ、表面からは不安定な光が漏れ出している。
「シルヴィア!当主権限を一部あなたに移譲するわ、転送準備を!迎撃砲を最大出力で起動しなさい!」
「了解ですお嬢様!通信開きました!当主権限B2~D4を一時的に受領!迎撃態勢に入ります。」
そう言うとシルヴィアは棒立ち状態になり少し上部を向いた体制のまま静止した。防衛システムの操作に入ったのだ。シルヴィアの眼球に様々な情報や座標の文字列が映るのがかすかに見えた。
間髪を入れず屋敷の塔の上部が開き、中から複数の迎撃砲が姿を現した。発射される砲弾が夜空を切り裂き、敵戦艦に向けて一直線に放たれる。しかし、爆炎と硝煙の境目に敵艦もシールドを発生させたのが見えた。すべての砲弾は直撃したものの硝煙の間から何事もなかったかのようにストーム級飛行戦艦の船首が顔を覗かせる。やはり工夫のない物理弾頭では限界があるか。イリーナは苦い顔をして軽く唇を噛んだ。
その瞬間、戦艦から再度の一斉掃射が開始された。凶暴なまでの轟音が夜気を引き裂き、屋敷を守るシールドの一角が見る間に溶け落ちる。シールド発生装置の1台に砲弾が直撃したのだ。シールド発生装置は3台ある中の1台だ、屋敷の三分の一が丸裸になったも同然だった。その直後けたたましい爆発の咆哮と共に屋敷の南東部分が吹き飛んだ。
「融合反応炉(アマルガム・リアクター)が・・。」
シルヴィアの声は震え、底知れぬ絶望を帯びていた。今の攻撃で運悪く屋敷全動力を担う融合反応炉(アマルガム・リアクター)が誘爆したのだ。イリーナは自分たちが刻一刻と最悪の事態に向かっていることを感じていた。
「シルヴィア!魔法障壁でシールドが破壊された区画を保護!気休め程度でも被害を抑るのよ!迎撃砲の砲弾にも霊素触媒(エーテル・カタリスト)を流し込んで!少しでも敵の足を止めます!」
イリーナは叫んだ。敵船の動力が小型融合炉であれば、霊素触媒(エーテル・カタリスト)の干渉波が増幅され、敵戦艦の人工知能の制御回路に混乱をもたらせるはずだ。
「しかし、お嬢様!先程の誘爆でこの屋敷に残された融合石(アマルガム・ストーン)残量は残り僅かです!おそらく、次の砲撃で使い切ります!逃走用車両の燃料補給が間に合いません!」
「このままじゃ、補給してる間に全滅よ!まず生き残ってから逃げることを考えましょう!打って!」
イリーナは今まで以上に強く叫んでいた。絶望しかけているシルヴィアを少しでも叱咤激励しなければという気持ちが、より彼女の声を大きく張り上げさせた。承知しました!というシルヴィアの応答と共にエーテルがまとう独特な波動音と共に迎撃砲の砲弾が敵戦艦へと放たれた。
砲弾は敵戦艦のシールドへとぶつかりエーテル特有の青く激しい衝撃波を放ちながら爆発四散した。止まれ!止まれ!止まれ!爆発の様子を見ながらイリーナは心の中で何度も叫んだ。
「お嬢様!」
シルヴィアが叫ぶ。その理由はイリーナにも分かっていた。敵戦艦が止まったのだ。人工知能と制御回路の間に一時的な遮断が起きたのだろう。おそらく刹那の時間だが、しばらく時間が稼げることにイリーナは安堵した。
「シルヴィア! バトラーへ通信! 侍女たちを全員連れて、すぐに脱出準備を!」
イリーナは即座に指示を出した。もとより勝ち目などない戦いだ。いかに被害を最小限に抑えて逃れるか、それだけを考えている自分に気づく。
これまでまともな戦闘を経験したことなどなかったはずなのに、体も頭も驚くほど自然に動いていた。武家の娘として叩き込まれてきた立ち振る舞いや危機対応の教え――そのすべてが、今この瞬間に役立っているのだろう。
こんな極限状態ははじめてなのに、思考がやけに冷静な自分を、イリーナは心の隅で苦笑いしながら見つめていた。
「イリーナお嬢様!脱出準備整いました。」
あ、とシルヴィアが小さな声をもらす。
「屋敷の中央庭園に小型船です!!シールドが破壊された隙間を狙われました!侵入する兵団を確認!映像を送信します!」
安堵したのも束の間、イリーナは体から血の気が引くのを感じていた。シルヴィアから送られた映像が網膜の端末を通して目の前に映し出される。武装した、赤い装束の集団が続々と破壊された屋敷の中央庭園から侵入していくのが見えた。我が国の兵士ではない。やはり停泊中に乗っ取られたのだ。
「シルヴィア!屋敷内のセキュリティシステムを起動!迎撃体制に入って!」
イリーナは即座に指示を出しながら、この不可解な敵の侵攻に対して考えを巡らせていた。敵は正面からの砲撃だけではなく、中央庭園からも侵入してきている。どこまで綿密に作戦を立てていたのか。もし、ヴァシネス家の当主を拉致するだけなら、もっと単純な方法があるはずだ。また、屋敷の財産が目的なら屋敷ごと破壊しかねないこんな攻撃してくるはずもない。この屋敷の破壊が目的だったとしても侵入してくる意味はない。それなのに、なぜこんな大掛かりな攻撃をしてまで乗り込む必要があるのか――疑問が消えない。
「セキュリティシステムを緊急起動しました!迎撃を開始していますが、すでに損傷率が増加しています!」
どうやら屋敷内のセキュリティでは軽い足止めにしかならないらしい。イリーナは敵がどんな武装でやってきているのかを予測し軽く冷や汗をかく。
「シルヴィア、もう一度、敵の動向と目的を探れないかしら?」
イリーナは臨時とはいえ当主権限を委譲したシルヴィアに問いかける。シルヴィアはまた上を向きしばらく屋敷内の情報を探った後、首を横に振った。
「映像システムは破壊されつつあります。屋敷の監視装置も砲撃の混乱で数が減少していて、すべてのエリアをカバーしきれません。ですが……」
シルヴィアは言いかけて止まったが、続けるようにイリーナが目で促す。
「広範囲に被害が出てるためあくまで傾向ですが、中央庭園の区画から奥まった位置——あの書庫に向かう通路の監視装置と防衛システムが集中的に破壊されているように見えます。。」
あの書庫。イリーナの心臓がひときわ強く脈打った。あの書庫にある本の数々にどれほどの価値があるか、イリーナは理解していなかった。だが、それでも昨日の出来事、そして自身の夢のことを思い起こすと、何か確信めいたものを感じていた。
「まさか……あの書庫にある本。本自体が目的……?」
イリーナはため息のように小さく息を吐く。半分は納得していた。もし自分自身が狙いなら、もっと別の手段で誘拐される可能性も大いにあっただろう。それなのに、いきなり戦艦を奪ってまで大々的に攻撃を仕掛ける必要は薄い。あの書庫自体が目的だとしたら、この屋敷のセキュリティと防衛システムは古いながらも強固だ。多少兵力を集めたところで簡単に突破することは難しいだろう。通常のやり方では。
「……あの本が目的なら、正面を派手に襲撃して混乱させているうちに、別動隊が書庫から目的の本を奪取、という筋書きも頷けるわね。あの書庫はこの屋敷の最奥にある。だから正面からの撹乱とシールドを破壊してからの中央庭園への強襲が同時に必要だったのかも。」
思考を巡らせるイリーナの脳裏に、昨日書庫での光景がふとよぎる。あれだ、古い巻物が入ったあの箱を開けようとした時、何かが視界を掠めたような感覚。、刹那のことだったので視界の錯覚だと思いこみ、あまり深くは気にしなかったのだが――
「……そうだわ。あの時……」
イリーナははっと顔を上げた。視界の端を何かが走り抜けた記憶。あれはただの見間違いではなかったのかもしれない。あれがもし、今攻撃を仕掛けている何者かの偵察端末だったとしたら。
「お嬢様? どうかなさいました?」
「シルヴィア、私、あの書庫で妙なものを見たの。最初は単なる幻覚かと思ったけど……あれが小型の偵察端末だったとしたら。」
「偵察端末……!」
シルヴィアの表情がこわばる。その可能性を考えれば、どれほどの情報が盗み見られていたか考えるだけで恐ろしかった。その偵察端末は長い期間潜伏していたに違いない。おそらく一度の稼働に限界があるのだろう、バトラーや侍女、時にはイリーナ自身に張り付いて情報を探っていたはずだ。だから目的の書庫を見つけるまで長い時間を要したのだ。イリーナがあの書庫を訪れたのは母からその場所を教えられて以来、もう何年もあの古い書庫に赴いていなかった。先日イリーナがあの書庫を訪れた時、偵察端末の主は小躍りして喜んだだろう。目的の場所を見つけ、一刻も早く書庫の本を奪取したかった。また、イリーナが何かを見つけることを恐れた可能性もある。だから昨日の今日で攻撃を決行したのだ。
「どうりで。あの戦艦は闇雲に砲撃しているように見えて書庫に繋がる中央庭園を覆うシールド発生装置を狙っていたんだわ。防衛システムの位置を調べられたのね……。私たちはずいぶん迂闊だったわ」
イリーナは、もう一度映像の断片を確認しながら苦い顔をする。あの書庫の本にどれほどの価値があるか分からないけれど、私のあの夢、あの夢の真実を知るにはあの書庫の本が必要なのに。
「――書庫に向かいましょう、シルヴィア。昨日見つけたあの本、あの本をそのまま彼らに渡すわけにはいかない。何か不吉なことが起こる、そんな予感がするわ。それに、私の夢の謎にもきっと繋がっている」
そう口にした瞬間、イリーナの目に再び決意の光が灯った。赤い装束の集団、そして正面に鎮座する敵戦艦。そのすべてが今まさに、イリーナ、いやヴァシネス家そのものの謎を奪おうとしている。イリーナはわかっていた。今日の攻撃で、父と母が遺した大切な屋敷も、それを守ってくれたバトラーや侍女たちも、家に受け継がれてきた財産も、失われてしまうだろう。そこには、幼い頃からずっと積み重ねてきた思い出、父母の面影、家名が誇りとして刻まれた数々の品々――イリーナの人生そのものが詰まっている。だが、今日それらすべてを手放すとしても、あの本だけはどうしてもこの手に残さなければいけない。失われたら二度と戻らないものがあるように、あの本にもまた、イリーナには得体の知れないほど大切で取り返しのつかない意味があるように思えてならなかった。
「了解しました、お嬢様。バトラーと侍女たちには先行して避難するよう指示を出します。お嬢様は私が全力でお守りします」
そう言ってシルヴィアはまっすぐイリーナを見つめた。その眼差しには深い心配と不安が宿っていた。長年の付き合いを通じて、イリーナにはシルヴィアの気持ちが手に取るようにわかった。シルヴィアは本の正体や、イリーナが本に触れたときの不気味な確信めいた感覚までは知らない。それでも、イリーナの決意と、心を引き裂くような痛みに突き動かされる様子を、シルヴィアは敏感に感じ取っているのだろう。
砲火の轟きと混乱が支配する中、ふたりの足取りに迷いはなかった。
古い書庫へと駆け出すイリーナの胸の内には、自身とヴァシネス家の秘密を繋ぐ最後の鍵を見つけ出すという強い決意が芽生えていた。今はそれだけを信じて、前に進むしかなかった。