深度: -1500m

第1話 遥かなる夢の中で

 緑の草原の中、花々が華やかに咲き乱れ穏やかな風が流れている。

 そこに一本の小川。異様に透き通ったそれは、両端は花や草に覆われ、水面には落ちた花びらや草木が流れている。一見穏やかに、平穏に見えるけれどもまっくもって底が見えずどこまでも暗い水底を伺わせていた。

 少女はそこに立ち、小川の水面を眺めていた。静かな風が流れる。ただ少女の前には、見れば見るほどに心の芯まで不安にさせるような、そんな小川が暗い虚ろな水底をのぞかせていたのだ。

 少女の前に純白の服を着た女性がいた。水面の下、虚ろな水の中に。彼女はただ目を閉じて静かにゆっくりと沈んでゆく。小さな小川のしかし底の見えぬ虚ろのなかに彼女は沈んでいく。少女は手を伸ばした、しかし、まるで粘質の液体の中にいるように体は緩慢にしか動かなかった。彼女は沈んでいく。暗い水底に果てしない虚ろの中に、草に花びらに囲まれながら。

「シュヴァルツ・ノワール」

 イリーナ・ヴァシネスは目を覚ました。「シュヴァルツ・ノワール」どこかで聞いたようでいて、なにかイリーナを不安にさせる単語が頭に響き渡っていた。

 イリーナは今年で一八歳になる、ヴィシネス侯爵家の令嬢だ。ヴァシネス家は代々軍人を輩出してきた家系で、その歴史は古く、王国の防衛や拡張において重要な役割を果たしてきたと記録されている。イリーナの父もまた例外ではなく、生前は国境線の最前線で指揮を執る優れた軍人だった。しかし、イリーナが生まれて間もなく、敵の砲撃が指揮所を直撃し、父は部下と共に文字通り跡形もなく消えたのだ。そのためか、十八歳になる今もイリーナには父の不在が現実として実感できない。あたかも彼女の記憶の中に、父という存在が最初から欠落しているように思えるのだ。

 母は寡黙な女性で、イリーナともほとんど言葉を交わすことはなかった。執事によれば、父が存命だった頃の母は笑顔の絶えない人だったという。しかし、イリーナの記憶にある母は、物静かで、切なげな表情を浮かべながら窓の外を眺めている姿ばかりだ。決して冷たい母ではなかったが、その心がいつも遠く離れた場所にあるような気がしていた。はるか遠くの南東の国では魂の存在が証明されたという話を耳にしたことがあるが、それが本当なら、母の魂は父が亡くなった日からずっと父の元に向かっていたのかもしれない。

 イリーナが十五歳のとき、母はついにその魂を解き放ち、父のもとへ旅立った。母の葬儀の日、イリーナの頬に涙は一滴も流れなかった。それは、子供心にずっと予感していた別れだったからだ。

 イリーナは緩慢な意識の中で例の悪夢から父と母の不在を連想し、ひどい寝覚めだと心の中で悪態をついた。白いネグリジェがはだけたのも気にせずにベッドから降りるとカーテンから外を覗き込んだ。外はまだ薄暗く、太陽の昇っていない時間が部屋に忍びこむ。遠目に見える湖畔の町の上に新型のストーム級飛行戦艦が停泊し、ぽつぽつと窓から光をもらしているのが見えた。はるか遠い大陸の端の戦争がこんな田舎町にまで静かに影を落としているようだった。イリーナは暖炉に|融合石《アマルガム・ストーン》を使って火を入れると書き物机にむかった。机の上にあるペンを手にとり白紙の紙を広げる。そして、イリーナはその言葉を紙に書き込んだ。

「シュヴァルツ・ノワール」 イリーナはその言葉を書きつけた後、ペンを机の上に置いた。そして、その紙を暖炉の中に投げ入れた。紙は赤い炎を上げて一瞬のうちに灰になり、その灰をイリーナはじっと見つめていた。

「シュヴァルツ・ノワール」その言葉がイリーナの心の中に重くのしかかる。

 それは、イリーナの悪夢であることにまちがいなかったが、どこか不安と切なさをイリーナの中に残していた。イリーナが、この悪夢を見るようになってから、もう三ヵ月もたっていた。その夢は、いつも決まって同じ場所から始まるのだ。

 見渡す限りの草原、青い空、小川、一人の女性、水底に沈む女性、闇の中へ。

「イリー、、イリーナ、、イリーナ様。」

 ハッと顔を上げる。侍女のシルヴィアがドアから不安そうな顔を覗かせていた。

「お嬢様。大丈夫でございますか?ずいぶんうなされているご様子でした。」

 シルヴィアの表情には、他の侍女たちのような遠慮や迷いはなかった。彼女だけは、まるで自分のことのようにイリーナを見つめているようだった。彼女と最初に出会ったのは4歳のころ。シルヴィアの母親が幼いシルヴィアと共にこの屋敷にやってきたあの日からイリーナたちは姉妹のように育った。侍女と令嬢の立場になった今でもその気持ちはいささかも変わらない。シルヴィア自身も侍女としての立場をよくわきまえつつも、その気持ちは変わらないであろうことが、その表情から改めて見てとれた。

「ごめんね、シルヴィア。なんでもないの。」

 イリーナは、シルヴィアに心配をかけまいとつとめて明るく言ったが、心の中にはあの夢への不安と疑念が渦巻いていた。そしてそれは日ごとに次第に大きくなっているのをイリーナは感じていたのだった。

「またあの夢ですね。もう3ヶ月も前からですよ。私はイリーナ様のお体が心配です!」

 シルヴィアがイリーナの横に腰かける。

「ねえ、シルヴィア。シュヴァルツ・ノワールって知ってる?」

 イリーナはふと口をついて出ていた。夢の中で頭の中に響き渡る単語。難しい単語ではない、どこか遠い記憶の中で、シルヴィアと一緒に過ごした日々の中にもそんな言葉があったかもしれない。単語の感じからすると、人の名前のようにも感じるが、それにしてもノワールはあまり良い意味の単語とは思えなかった。

「シュヴァルツ・ノワールですか?いえ存じませんが。本か何かでしょうか?」

 シルヴィアが首をかしげるのを見てイリーナは思わず笑ってしまった。それはそうか、イリーナも試しに聞いてはみたがまったく聞き覚えがないのだから。

 イリーナはふと、あの古ぼけた書庫、屋敷にある大きくきれいな書庫ではなく隠されるように片隅に作られた個室2部屋分ほどの、あの書庫を思い出した。遠い昔、といってもイリーナが子供のころ、母に連れられて行ったことがある。ただそれは、こういった古い書庫があるという、ただそれだけのものだった。母は、どこかよそよそしく、この書庫の詳細を話すことを躊躇うように、しかし義務的に教えなければならないというようにイリーナにこの書庫を案内したのだった。

 窓の外にはまだ夜明け前の薄明かりが差し込んでおり、屋敷全体は静寂の中に包まれていた。今更思い出したあの書庫について、少しのぞいてみようという気持ちがイリーナのけだるい体を動かした。

「シルヴィア。例のあの書庫に行こうと思うわ。」

 シルヴィアがまた不安げにこちらを見つめている。

「お嬢様、例の書庫というのは?」

 そうか、シルヴィアはヴィシネス家の一族ではない。教えられていないのだと、イリーナは直感的に理解した。イリーナは、簡単に書庫のことをシルヴィアに説明した。仮にもヴァシネス家の侍女、しかもイリーナの専属侍女だ。秘密の書庫の場所ぐらい知っておいてもらわないと。イリーナは少しいたずら気にそんなことを考えた。

 シルヴィアに少し早い朝の支度を頼んだあと、イリーナは足早に書庫へと向かった。ヴィシネス家の屋敷は、かつて栄華を誇った砦を元にした邸宅で、無数の部屋と廊下が迷路のように絡み合っている。

 長い廊下を抜け、中庭へ差しかかると、庭で草花を手入れする使用人の姿が見えた。彼は無口な様子ながら、土を撫でる手つきは優しく、育てている草花を愛おしんでいるのがわかる。イリーナが軽く声をかけると、彼は小さく淡い青色の花を一輪摘み、そっと差し出した。それは「ヴァーン・ブルーム」と呼ばれ、|融合大陸《アビシオン》各地に自生し、旅人たちの道しるべともなる花だ。イリーナは微笑んで花を受け取る。

 ホールへ戻ると、壁に設置された|融合石《アマルガム・ストーン》の調整パネルを操作している侍女が目に入った。屋敷全体の動力源は地下の|融合反応炉《アマルガム・リアクター》によって賄われているが、部屋ごとの温度調整は別途必要だ。朝の冷え込みを和らげようと、彼女はエーテルの流れを細かく調整しているらしい。イリーナが「ありがとう」と声をかけると、侍女は「すぐに暖かくなりますよ」と笑顔で応じる。イリーナも微笑みを返し、再び足を進めた。

 そんなやり取りを交わしながら、長い廊下や階段を下り、ようやく書庫の前にたどり着く。そこだけは他の部屋と違い、錆びついた金具のかかる古びた扉が待ち構えていた。先ほどまでの穏やかな朝の空気が嘘のように、この書庫の周りはしんと静まり返っている。イリーナには、まるで書庫の時間そのものが止まっているかのように感じられた。

 扉を押すと、古びた木材が低く抗うような唸りを上げ、金具が苛立つような悲鳴をあげた。随分と長い間この扉は開かれていなかったらしい。隙間から漏れ出る冷たい空気は、何か得体の知れないものがこの先に潜んでいることを告げているかのようだった。中に足を踏み入れると、先ほどの冷たい空気が体中にまとわりつきイリーナは思わず身震いした。イリーナがあたりを見渡すと薄明かりが入る窓からの光が、所々に積もった埃の粒子を照らし出している。書庫の中には無数の書物が所狭しと並び、その表面にはいくつもの年代を重ねた痕跡が刻まれている。まるで何世代にもわたって集められた知識が、この一室に集約されているかのようだった。

 本棚は高く、壁一面に立てかけられている。棚の端には虫の巣がいくつか張っていて、長い間誰も手をつけていなかったのだろうことを物語っている。棚の中には奇妙な形をした本が並び、表紙に金色の文字や紋章が押されている。幾冊かは表紙がぼろぼろに剥がれ、内部のページも黄ばんでいる。しかし、それらの本のいずれも、ただの古書ではなく、何かしらの重みを感じさせるものだった。

 イリーナは、無意識に目を引かれた一冊の本を手に取った。その本は、他の本と比べて少しだけ異質な光沢を放っていた。表紙には何のタイトルも記されておらず、ただ、細かく刻まれた銀色の装飾だけが異様に精緻だった。ページをめくると、文字は非常に古い書体で記されており、まるでその文字自体が時代を超えて語りかけてくるような感覚を覚えた。

 本の中には、いくつかの文章が断片的に書かれていた。それは物語というよりも、記録に近い内容だった。理解しがたい言葉の羅列が続き、その中に「セヴェ***」――その言葉が幾度となく登場していた。しかし、これが何を意味するのか、どうしてこの言葉が繰り返されているのかは、イリーナにはまったく分からなかった。ただ、その言葉が放つ微かな引力が、心の中で徐々に広がっていくのを感じていた。

「セヴェ***」――その言葉が浮かんでくるたびに、何か深い感覚が胸の奥にひっかかる。まるで見覚えのある夢の中でその言葉を聞いたような、知っているような気がする。しかし、どうしてもその意味を掴むことができない。

 イリーナは本を閉じ、無意識に書庫を見渡した。棚の中に並ぶ他の本は、どれも異常なほどの古さを感じさせ、まるでその全てが何か大きな秘密を抱えているかのようだった。しかし、今はそれらすべてに手を出す気力はない。ただ、この一冊に含まれた情報だけで十分だと感じた。

 そして、イリーナは書庫を後にしようとしたその時、不意に壁の隅に置かれた一つの古びた箱に目が留まった。箱の表面には、かつては輝いていたであろう金の装飾が、今はほとんど消えかけている。しかし、そこに何かが収められているような気配を感じた。箱に近づくと、手が震えた。

 箱を開ける前に、イリーナはふと、何かが視界をかすめたような気がして、振り返った。しかし、何も見当たらない。改めて箱に手を伸ばし、ゆっくりとその蓋を開けた。

 中には、またしても不明な文様が刻まれた古い巻物が一つ、静かに眠っていた。それを手に取った瞬間、イリーナはまたあの夢のような感覚を覚えた。何かが、どこか遠くから呼んでいる。

 イリーナは巻物を開き、次々とその文字を追っていた。文字の一つ一つが、まるで見知らぬ言語で書かれているかのようにイリーナには不明だった。しかし、その中に、ついに目にしたことがある文字があった。それは、夢の中で何度も聞いたあの言葉だった。

「シュヴァルツ・ノワール」

 イリーナの指先がその文字に触れた瞬間、胸が締め付けられるような感覚に襲われた。心臓が不規則に鼓動を打ち、手に汗がにじみ出る。あの夢の中で見た暗い水底、純白の女性が沈んでいったあの情景が頭の中で再生された。水面に漂う花びら、彼女がゆっくりと消えていく様子、そのすべてがイリーナの目の前に鮮明に浮かび上がる。

 イリーナは思わず巻物を手から落とし、背筋が凍るような冷たい感覚に襲われた。言葉を見つけること自体が、こんなにも恐ろしいことだとは思わなかった。あの夢が、ただの夢ではなかったのだと、何かしらの繋がりがあるのだと、強く感じていた。

「イリーナ様?」

 そのとき、突然、後ろから声がかかった。振り向くと、書庫の扉の向こうにシルヴィアが立っていた。彼女の表情には、いつもの優しさの中にも不安が滲んでいる。イリーナは急いで巻物を元に戻すと、震える手でその上からそっと布をかけた。

「もう朝の準備はできたの?」

 イリーナの声は、少し震えていた。

 シルヴィアは心配そうに一歩近づいてきた。「はい、お嬢様。朝の支度ができたのでお嬢様をおよびしようと。お嬢様は、また夢のことを考えていらっしゃるのでは?」

 イリーナはぎこちなく微笑んだ。

「大丈夫、シルヴィア。今はちょっとした調べ物をしていただけだから。」

 シルヴィアは眉をひそめながらも、イリーナを見つめる。

「ですが、無理をなさらないでくださいね。お身体が心配です。」

 その言葉には、以前のような軽い心配とは異なる、深い意味が込められているように感じた。

 シルヴィアはしばらく彼女の顔を見つめた後、深く息を吐いて言った。

「ありがとう、シルヴィア。でも、心配しないで。少し休んでから戻ります。」

 そう言いながら、巻物に視線を向け、手を伸ばした。しかし、そのとき、ふと気づく。あの言葉を見つけたことで、イリーナの心はかつてないほどに重く、何かに引き寄せられているような感覚に包まれていた。

「では、また後で。」

 シルヴィアは微笑みながらイリーナに背を向け、扉を閉める音が静かに響いた。