第11話 始まりの神話
暗闇の中を飛行し続けたミルゼット500は、やがて雲の上へと抜け出た。眼下には、夕暮れに染まる大地が広がっている。オレンジ色の光が地平線から空へと広がり、雲の端が金色に輝いていた。遠くには、融合大陸の特徴的な地形が見えていた。無数の世界が融合した痕跡が、まるで大地の皺のように刻まれている。
「ようやく逃げ切りましたね、お嬢様」
シルヴィアが前席から振り返り、疲れた表情で言った。彼女の手には、まだ緊張の余韻が残っていたのか、小さな震えが見て取れた。
「ええ、まさかあんな場所まで襲撃してくるとは思わなかったわ」
イリーナも疲れを隠せない様子で答えた。しかし、その目には好奇心の光が宿っていた。襲撃者たちの執拗さは、イリーナの持つ銀色の刺繍の本の価値を裏付けるものだった。
後部座席でルカは、まるで襲撃などなかったかのように、のんびりと背もたれに寄りかかっていた。大きな二本足を組んで、時折尻尾を揺らしながら、夕暮れの景色を眺めている。その様子は、まるで散歩の途中で一休みしているような、驚くほどの余裕を感じさせた。
「ルカ様、お疲れ様でした」
シルヴィアが声をかけると、ルカはゆっくりと耳を動かした。
「ルカ、申し訳ありませんわ。あなたをこんな危険な状況に巻き込んでしまって」
イリーナが後ろを振り返り、申し訳なさそうに言った。
「私もお詫びいたします。お嬢様の護衛として、より慎重に行動すべきでした」
シルヴィアも頭を下げた。
「いやいや、私こそお嬢様方に助けていただきました。あの襲撃者たちの執拗さを見て、ようやくあなた方が置かれている状況が理解できてきましたよ」
その言葉は丁寧だったが、どこか飄々とした響きがあった。まるで、襲撃などは些細な出来事だったかのような、仙人のような余裕が感じられた。
イリーナは後ろを振り返り、ルカの様子を確かめた。彼の手には、まだカバンがしっかりと握られていた。襲撃の最中も、ルカは驚くほど冷静さを保っていた。それは、単なる度胸の良さを超えた、深い余裕の表れを感じさせられた。
「羅生門へと向かう道中は、少し速度を緩めて進む方が良いやもしれまんわね?」
イリーナが提案した。襲撃からの脱出で疲れ切った体を、少し休ませる必要があった。
「はい、その方がよろしいかと思います」
シルヴィアが頷き、操縦桿を少し緩めながら、オートパイロットのボタンを押した。ミルゼット500は即座に反応し、操縦桿がシルヴィアの手を離れ、ゆっくりと動き始めた。機体はより穏やかな速度で飛行を続け、イリーナとシルヴィアも少し体を伸ばし、楽な姿勢を取った。
羅生門へと向かう途中、イリーナは後部座席のルカに声をかけた。
「ルカ、先ほどの古代の伝説について、もう少し詳しく聞かせていただける? とくに、セヴェラという神について……」
「ああ、セヴェラについてでしたな」
ルカは耳を動かしながら、カバンに手を伸ばした。その動作は、まるで古い記憶を探るように、ゆっくりと丁寧だった。
「セヴェラは非常に古い神です。ゆえにその記録も遥か彼方に霞んでいます。アビシオンが生まれてすでに数万年、いや、もっと長いかもしれません。時というものは、私のような存在でも時折混乱させられるものですね」
カバンから取り出した古い本は、表紙に漆黒の地に金と青の装飾が施され、その輝きは夕暮れの光に照らされて微かに光っていた。装飾は、まるで宇宙を表現したかのような渦巻く星々の模様で、中央には古い文字が刻まれている。本の装丁は古びているものの、その存在感は今も色褪せることなく、見る者を圧倒する。ページをめくるたびに、古い羊皮紙の香りが漂い、時を超えた重みを感じさせた。
「さてさて、お嬢様方の好奇心は尽きないもののようですから、この本をご紹介しましょうか。この本は『融合の書』と呼ばれる古い記録の一部です。表紙の装飾は、まるで太古の宇宙を映し出したかのようでしょう? 渦巻く星々の模様は、セヴェラが世界を融合させた時の光景を表現していると伝えられています。中央に刻まれた古い文字は、『始まりの記録』という意味を持つとされています。私が若かりし頃、とある古い図書館で見つけたものです。あの図書館は今はもう存在しませんが、その記憶は今も鮮明に残っています。図書館の名は『星の記憶』。天井には、この本の表紙と同じような星々の装飾が施されていました。まるで、本と建物が呼応し合っているかのようでしたね」
ルカは尻尾を揺らしながら、遠い記憶を辿るように続けた。
「あの図書館は、今はもう存在しない『セヴェラリス・ネブラリス』と呼ばれる場所にありました。星々が降り注ぐような光景が見える、美しい場所でした。しかし、ある日、とある惑星がセヴェラリス・ネブラリスに接近し、融合が始まりました。その混乱の中で、人々は互いに争い、街はしだいに荒廃していきました。図書館の最後の日、私はこの本を手に取り、星々の装飾が輝く天井を見上げていました。その時、まるで星々が語りかけてくるかのような、不思議な感覚に襲われたものです。そして、その夜、最後の戦いが始まり、セヴェラリス・ネブラリスは最後の爆発と共に消え去りました。」
ルカは深いため息をついた。その息遣いには、失われた図書館への追憶と、時を超えた重みが宿っていた。しばらくの沈黙の後、彼はゆっくりと本を開き、静かに読み始めた。その声は、まるで遠い昔の記憶を語るように、ゆっくりと響いた。
「太古の世には無数の世界がありました。それぞれの世界は、独自の法則と秩序を持ち、独自の歴史を刻んでいました。ある世界では魔法が支配し、別の世界では科学が栄え、また別の世界では神々が人々を導いていました」
イリーナは目を閉じた。ルカの声に導かれるように、その光景が浮かんでくる。無数の世界が、それぞれの輝きを放ち、独自の物語を紡いでいたのだ。その様子は、まるで夜空に散らばる星々のように、美しくも儚いものだった。今の融合大陸の混沌とした姿は、その時代の名残なのだろうか。
「しかし、世界の態様はことごとくに異なり、絶えず争いを続けていました。人々は自らの世界こそが正しいと信じ、他者を否定し、時には滅ぼし合いました。その争いは、世界の境界を超え、ついには宇宙の秩序さえも揺るがすほどになっていったのです」
「かくの如き混迷のなかで、とある神がこの世へと舞い降りました。神の名をセヴェラといいました。その姿は、人々の想像を超えるものでした。ある者は光の化身と呼び、ある者は闇の使者と呼びました。しかし、その本質は誰も理解することができませんでした」
「セヴェラ……」
イリーナはその名を口にした。古い書庫で見つけた銀の刺繍の本。あの日、屋敷の瓦礫の中から再び見つけた、あの本にあった名はこの名前だ。それは、まるで幼い頃に聞いた子守唄の中にあったような、遠い記憶の中に眠っていたような名だった。もしかしたら、それは前世の記憶なのかもしれない。そんな不思議な感覚に襲われた。
「この神は自らの大いなる力を知り、言いました」
ルカの声が、神の言葉を語るように変化するように感じた。その声には、神々しい威厳と、深い慈愛が宿っていた。
「人よ、あなたたちの行いによって幾多の地が呪われたので、わたしは、その幾多の地を1つの地とします。幾多の地は1つとなり、遥かなる天の国も、遥か地の底にある地の獄までも、ついには1つの地となるでしょう。」
その言葉に、イリーナは息を呑んだ。それは、今の世界の始まりを告げる宣言だった。この本は融合大陸(アビシオン)の創世の物語を語ったものなのだ。イリーナたちが知る創世の物語はフェイロゼア公国の神話であり、それは融合大陸(アビシオン)の神話とは異なるものだ。融合大陸(アビシオン)の創世、それはあまりにも広大で途方もない昔の神話で、今やそのほとんどが残されていないと言われていた。本物かはさておき、その本をルカは持っているという事実にイリーナは驚きを隠せなかった。
「その日、大いなる宇宙の拡大は、ことごとく破れ、セヴェラの元へと向かいました。無数の世界が、まるで渦を巻くように、1つの中心へと集約されていったのです。その光景は、まるで銀河が渦を巻くように、美しくも恐ろしいものでした」
「セヴェラとその従者たちは、1000の地を1つとするのに、23億と2千3百53日をかけたのです。その間、世界は絶えず変化し続けました。新しい法則が生まれ、古い法則が消えていきました。人々は、その変化に戸惑い、時には抵抗し、時には受け入れていきました」
「人は23億と2千3百53日の間争いをやめませんでした。彼らは飢えのために物を盗み、受ける傷のために人を殺し、自らの欲のために、そのすべてを行いました。その中で、人々はしだいに、自らの存在を見失っていきました」
ルカの声には、深い悲しみが宿っていた。それは、人類の愚かさを嘆く声でもあり、同時に、その運命を受け入れざるを得ない諦めでもあった。その声は、この物語を何度も語ってきた者の重みを感じさせた。
「1000の地を1つとしたとき、セヴェラは新たな地を眺められました。そこには、1つとなった世界がありましたが、より一層激しい争いと混乱が渦巻いていました。」
「そのありさまを見て、セヴェラは言いました」
再び、神の声が響いた。その声は、怒りと悲しみ、そして困惑に満ちていた。
「人よ、あなたたちが世の理を知ろうとしないので、あなたたちの死は永遠の安寧ではなく、永遠の苦しみとなるでしょう。地の獄はすでに1つとなり、あなたたちは土にかえることすらできません。ちりとなりながら、なおも生きながらえるのです。」
その言葉に、イリーナは身震いした。イリーナははるか南東の国で魂の存在が見つかったという話を思い出した。南東での話とこの本の内容の奇妙な符合にイリーナは鳥肌がたっていた。もしこの本の内容が本当だとすれば死はこの世からの開放を意味しないのだ。
「かくして、人の死は魂の安寧をもたらすものではなくなりました。セヴェラの怒りが、永遠の安らぎを奪い去ったのです。それでもなお、人々は過ちを繰り返し続けています。そして今も、私たちはこの一つとなった世界で生き続けているのです。それは呪いなのか、福音なのか――今となっては、その真実を知る者はいません」
ルカは本を閉じた。機内には重い沈黙が広がった。夕暮れの光が、徐々に闇へと変わっていく中、その沈黙はより一層深みを増していった。
「これが、私たちの世界の始まりかもしれないのですね」
シルヴィアが静かに言った。その声には、理解と困惑が入り混じっていた。彼女もまた、この物語の重みを感じ取っていたのだ。
「あくまで神話です。すべてが本当かはわかりませんがね。ただ、ある程度は本当なのだろうと推測していますよ。この神話は好きですが、いささか悲観的すぎる。わたしはもっと楽観的に考えています。この世界を良くしようとする人々は想像より多いものです」
そう言うとルカはおもむろに顔を上げ、遥か彼方を見つめるような、深い追憶の色を瞳に宿した。その眼差しには、幾星霜を経てきた者だけが持つ、静かな深淵が広がっていた。
イリーナは頷いた。ルカの纏う追憶の気配に、彼女の心も微かに揺れた。しかし同時に、解けない問いが次々と胸に湧き上がってくるのだった。
この神話に登場する神「セヴェラ」。その名前にイリーナの心は妙にざわついた。初めて聞く名前のはずなのに、なぜか遠い昔から知っていたような、不思議な感覚にとらわれる。ヴァシネス家の古い書庫でイリーナ自身がその本を見つけ出したこと、そして屋敷が襲撃された後、瓦礫の中からまるで導かれるようにあの本だけが見つかったこと。それらすべてが偶然とは思えず、何か大きな意味を持っているように感じられたのだ。 なぜ、あの赤い装束の者たちは、この本をあれほど執拗に追うのだろうか? そして、この古き神話は、今の私たちに何を伝えようとしているのだろうか?
羅生門へと向かうミルゼット500の中、イリーナはその答えの糸口を探し続けていた。窓の外では、夕暮れの残光が夜の帳に溶け、星々が瞬きを増していた。かつてはあの空の星のように異なる世界に属していた星々が、今は同じ天蓋の下で静かに輝いている。その光景そのものが、セヴェラの言葉の真実を音もなく語りかけてくるかのようだった。