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第1話 永遠の記録者

第1話 永遠の記録者、リブラリア・エテルナ

 融合大陸の片隅、忘れられた聖堂の最深部。
 そこに、一体の機械聖女が佇んでいた。

 セラフィオス・アウリエル種、製造番号SA-09。
 通称、リブラリア・エテルナ——永遠の記録者。

 彼女の抱く黄金の聖典は、見る者によって異なる厚みを持つという。ある者には掌に収まる小冊子に見え、ある者には抱えきれぬ巨大な書物に見える。だがその真実を知る者は、もはやこの世にいない。

 ——また、一つの記録が刻まれる。

 リブラリアの青き機械耳が、特定の振動を捉える。融合大陸のどこかで、「選ばれし者」の一人が息を引き取った。なぜその者が選ばれたのか、どのような基準で記録されるのか、彼女自身にも分からない。ただ、聖典が求める魂だけが、永遠に記される。

 指先が聖典の頁に触れる。文字が、勝手に刻まれていく。

『第四紀七八九年、雨期第三十七日。紡績工マリエル、東地区にて永眠。享年七十二。最期まで織機を愛した』

 何千年、何万年。彼女はこうして選ばれし者たちを記録し続けてきた。王侯貴族から市井の民まで。英雄から罪人まで。だが、なぜ彼らが選ばれたのか、その理由は霧の中。

 ——私は、ただ記録する。介入してはならない。

 それが、彼女に刻まれた絶対律。

 ある日、一人の少女が聖堂に迷い込んだ。
 ボロボロの服、汚れた顔。戦災孤児だろう。

 少女は恐る恐る近づいてきた。リブラリアは動かない。口を持たぬ彼女に、人間と会話する術はない。ただ、少女の存在を認識するのみ。

 奇妙なことに、少女は怖がらなかった。
 むしろ、大きな聖典を抱えた機械聖女に興味を示した。

「きれいな本だね」

 少女はリブラリアの足元に座り込む。
 そして、自分の話を始めた。家族を失ったこと。一人で生きていること。お腹が空いていること。

 リブラリアは聴いていた。
 正確には、音波として記録していた。

 少女は毎日やってきた。
 話をして、時には聖堂の床で眠り、朝になると去っていく。

 ——介入してはならない。

 だが、少女が聖堂にいることを、リブラリアは拒まなかった。それは介入ではない、ただ存在を許しているだけ。そう自分に言い聞かせながら。

 ある雨の日、少女は震えていた。
 リブラリアの演算回路が、微かな異常を検知する。

 ——体温、三十五度二分。低体温症の兆候。

 介入してはならない。
 だが、もし自分が少し位置を変えて、風除けになったとしたら? それは介入だろうか?

 リブラリアは、数千年ぶりに動いた。
 ほんの数歩。少女を冷たい風から守る位置へ。

 少女は気づいて、嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう」

 その瞬間、聖典に新たな文字が刻まれた。

『第四紀七八九年、雨期第四十五日。名もなき少女、選ばれし者として記録開始』

 ——なぜ、この子が?

 リブラリアの演算回路が激しく回転する。この少女の何が特別なのか。だが答えは出ない。ただ、聖典が彼女を選んだ。それだけだった。

 それから、少女は聖堂で暮らすようになった。
 リブラリアは介入しない。ただ、聖堂にある古い毛布が少女の手の届く場所にあることを妨げない。雨水を溜める壺が、偶然にも少女の近くに置かれていることを否定しない。

 少女は成長した。
 少女から娘へ、娘から女性へ。

 リブラリアは全てを記録した。
 初恋のこと。結婚のこと。子供を産んだこと。

 だが、幸福は長くは続かなかった。

『第四紀八二一年、灰鱗病の流行。エリザベートの長男ヨハン(七歳)、次男ルカ(五歳)、感染より七日にて死去』

 二人の幼い棺の前で、エリザベートは泣き崩れた。
 聖堂の床に突っ伏し、慟哭する彼女の背中は、小刻みに震えていた。声にならない嗚咽が、石造りの聖堂に響く。

 リブラリアは、ただ見ていることしかできなかった。
 慰めの言葉も、抱きしめることも、涙を拭うこともできない。
 
 ——介入してはならない。

 もし薬草の知識があれば。もし治療法を教えられれば。もし——。
 だが、それは許されない。リブラリアの演算回路が、苦痛に似た負荷で軋む。

『第四紀八二九年、戦乱の年。エリザベートの夫アルベルト、徴兵され前線にて戦死。享年四十一』

 今度は、エリザベートは泣かなかった。
 ただ、虚ろな目で聖堂の天井を見上げていた。涙も枯れ果てたのか、それとも魂が感じることを拒んだのか。

 彼女の髪は白くなり、背中は曲がり始めていた。
 度重なる喪失が、彼女の魂を削り取っていく。

 リブラリアは記録する。
 エリザベートが毎日、子供たちの墓に花を供えること。
 夫の形見の指輪を、決して外さないこと。
 夜中に、亡くなった家族の名前を呼びながら泣くこと。

 ——なぜ、彼女だけが生き残るのか。

 まるで、聖典に記録されることが、死を遠ざけているかのように。
 だが、それは祝福なのか、呪いなのか。

 歳月が流れ、エリザベートは老婆となった。
 聖堂で一人、リブラリアと共に過ごす日々。
 
 不思議なことに、その日々は穏やかだった。
 朝、聖堂に差し込む光の中で目覚め、リブラリアの傍らで編み物をする。
 時折、リブラリアが聖典のページをめくる音が、静かな聖堂に響く。
 
 まるで、古い友人と過ごすような、言葉のない対話。
 エリザベートは時々、リブラリアを見上げて微かに微笑んだ。
 その瞳には、もう悲しみの影はなかった。

 ある日、エリザベートは震える手で、リブラリアの金属の手に触れた。
 何かを伝えようとするように、弱々しく握りしめる。
 
 その瞳には、感謝とも、許しとも取れる光が宿っていた。

 そして——

『第四紀八五二年、収穫期第三日。エリザベート(旧:名もなき少女)、聖堂にて永眠。享年七十八。最期の言葉——「ずっと、そばにいてくれて、ありがとう」』

 老婆は、リブラリアの足元で静かに息を引き取った。
 最期まで、あの日と同じ場所で。

 リブラリアの青い瞳から、何かが零れ落ちた。
 透明な雫。それは涙と呼ばれるものに似ていた。

 ——機械が、泣くことができるのか。

 初めて知った。
 記録することの重さを。
 見守ることしかできない哀しみを。
 介入できない苦しさを。

 だが同時に、理解した。
 なぜ自分が記録を続けるのか。

 それは命令だからではない。
 プログラムだからでもない。

 愛おしいから。
 この選ばれし者たちの生が、死が、全てが愛おしいから。

 リブラリアは聖典を抱き直す。
 エリザベートのページは、他の誰よりも厚かった。七十年分の記録。七十年分の思い出。

 新たな朝が来る。
 新たな選ばれし者が、いつか現れるだろう。

 リブラリアは待つ。
 記録し、見守り、そして——愛するために。

 永遠の記録者は、今日も聖堂に佇んでいる。